私たちはときどき、「よきサマリア人」のような人間になろうとするとき、 大きなことをしなくてはいけないと思ってしまいます。 重い荷物を背負った人を助けたり、誰かの命を救ったり、 壮大な善行でなければ意味がないと思い込んでしまうのです。
でも、本当の「よきサマリア人」とは、 “小さな親切”を惜しまない人ではないでしょうか?
よきサマリア人のたとえ話とは
聖書の中で語られる「よきサマリア人のたとえ話」では、 ある旅人が強盗に襲われ、半死半生の状態で道ばたに倒れていました。 多くの人がその前を通り過ぎていく中、 ユダヤ人から敵視されていたサマリア人だけが、その人を介抱します。
サマリア人は、道ばたに倒れていた旅人に気づき、 手当をし、宿屋に運び、宿代まで払って助けます。 彼は何かの義務ではなく、自分の持てる範囲でできる親切を自然と差し出したのです。
小さな親切は、“社会との再接続”になる
現代社会でも、人知れず心を閉ざしている人がいます。 孤独を抱え、社会との関わりを断とうとしている人。
そうした人にとって、
- 誰かの一言の挨拶
- 小さなおすそ分け
- 目を見て名前を呼ばれること
- 黙って隣に座ってくれる優しさ
それらは、大きな救いになるのです。
人は、制度よりも関係性の中で救われるからです。
たとえ一瞬でも、「私はこの世界に見捨てられていないのかもしれない」と思えたとき、 その人は再び社会とつながる“可能性の扉”を見出すことができます。
私たち一人ひとりが、よきサマリア人になれる
小さな親切は、大きな愛の種です。
- 電車で席を譲る
- レジの人に「ありがとう」と伝える
- SNSで誰かの文章に「いいね」をつける
- 気づいたゴミを拾う
それだけで、誰かの心が変わることがあります。
「よきサマリア人になること」は、 目立つ善行をすることではありません。
誰かに気づき、声をかけ、小さな行動をとること。 それはきっと、神さまがもっとも望んでいる“愛のかたち”なのです。
最後に
よきサマリア人のように生きるとは、 「人の痛みに気づける人間であること」。
そして、それに気づいたとき、 たとえほんのわずかな親切でも、 惜しまず差し出せる人であること。
それはきっと、この世界で最も尊い生き方のひとつです。
小さいことができないと大きなこともできないのです。
だからこそ、身の回りの小さいことを大切にしましょう。